中国 鄭州・麗江・肇慶の旅。前編(2011年4月)

2011-04-30
今回の訪中の目的は殷虚遺跡(2回目)で、甲骨文字をもう一度見たいという思いと東巴文字簡易字典作成の為の第1次校正をすること、そして肇慶に劉演良老師を尋ね、老坑などの現況を知ることであった。

4月3日・福岡から大連

福岡から大連を経由して鄭州に向かうのであるが、大連では1泊する為 午後に到着し、大連の港にある老虎漂を見学。海からの風は冷たく寒い。 【大連の海岸にある公園。石像・老虎漂】 中国は今日から3日間(3日~5日)日本の彼岸にあたる『清明節』で、先祖の 墓参りをするため休みだそうで、若い男女や家族連れの人々が多かった。 旧日本人街を一巡りして中山広場、旧満鉄の大連賓館を見学した。最近中国では 新婚カップルが正装のまま街路で写真撮影をしている光景をよく見かけるが ここでも2組のカップルが友人に囲まれてポーズをとっていた。 【旧満鉄の大連賓館。】 【大連賓館の真向かいに見えるのが新婚カップルの撮影風景。右側は中山公園。】 まだ街路樹のアカシヤは芽吹いてはいなかった。 ホテルはニッコーホテルである。かつてはヒルトンホテルであったとガイドの曲さんが言っていた。

4月4日・鄭州

4日は朝早くの6時30分にホテルを出発し空港へ。中国の内陸線は定時に 飛ぶ事は無いが、この日は珍しく予定より早く離陸した。 大連から鄭州は1時間30分の空の旅であった。 鄭州でのガイドは陳さんと云う人であった。鄭州は3日前に久しぶり雨が降って 農作物には大変良い雨であったと農民は喜んでいると言っていた。 昼食を済まして、車で南陽へ200kmある高速道路を走り、11時40分に 黄河大橋を渡るが、(黄河を渡るのはこれで2度目である。1度目は20年程前に なると思うが、黄河の水量も多く雄大な眺めであったと記憶している)停車も 写真撮影もダメであった。 近年水量が少なく、この季節は川底が見えるくらいであるとの事であった。 殷墟遺跡には14時20分に到着した。殷墟については日本でも深く研究されており 私などが講釈しても始まらないが、漢字の原点である甲骨文字を知る上において殷墟には 興味が湧く。 現在出土した甲骨は15万枚で、刻ってある文字は5000字で、意味が 判明しているのは、わずか1200字であり判明された文字によって当時の政治、軍事 農業、天文、歴史などの様子を伺い知ることができると言う。 【殷墟前で。】 殷墟は安陽市から2.5km離れた小屯村あたりにある。総面積24平方キロ (安陽旅遊)に及ぶ。紀元前14世紀に商期の第19代目の王盤庚が、この地に 都を移して以後、紂王の滅亡まで270年間続いた。 【左は甲骨文字の『門』を形取った門。右は内部へと続く建物。】 この時期は商代末期または殷商時代と呼ばれている。清の光緒25年(1899年) 小屯村で王懿容(おういえい)と言う人によって漢方薬の一種『龍骨』から、初めて 文字を発見された。 【甲骨文字が発見された場所。】 この発見によって当時の政治、経済、民族、風俗、天文、また奴隷社会などを 解明する重要な資料となった。 【甲骨文が書かれている甲羅。】 【甲骨文が書かれている甲羅。】 【回廊に1枚づつ甲骨文字が書かれている書。】 【甲骨文字が書かれている書のアップ。】 殷墟内には大別して殷墟甲骨文展示室、殷時代の馬車、処刑された捕虜の遺骨 青銅器、玉などの展示室がある。その中に殷商時代の代表作である殷墟王霊区の 大きな墓から発見された『司母戊大方鼎』がある。 【車馬坑の大車。4頭立てで、ドラマなどに良く出てくる戦車であったり皇帝が乗る車馬だったのであろう。】 【遠くて見にくいが『司母戊大方鼎(レプリカ)』である。後は展示室。】 この『司母戊大方鼎』は四角形で足4つと耳2つあり、高さ1.33m 長さ1.66m、幅0.79m、重さ875kgで、外観は荘重で迫力があり 文飾も綿密精工である。 【『司母戊大方鼎』。】 中に『司母戊』と銘文があることから『司母戊大方鼎』と呼ばれている。 16時45分、殷墟を後に帰路につく。 ガイドの話では、三国志の曹操の墓が2009年に発見されたが、まだ一般には公開されていないとの事である。 以降、中編に続く。
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